ロシア音楽の歴史に就いての注意点(教会音学編)

ラフマニノフやチャイコフスキーの音楽が好きな人は多いと思う。その人が音楽に詳しい人だったらグレゴリオ聖歌やオケゲム、ギョーム・ド・マショーにネウマ譜、ヴェネツィア学派やフランドル楽派、そしてマーラー、ヴァーグナー、ヒットラーまでよく知っていることであろうし、シューマンの歌曲を聞いたら、「ああ、これはドイツの民謡がベースだな」なんていう直感もあるだろう。


さて、ラフマニノフやチャイコフスキー、五人組の淵源は何処であろうか。


現在世界を席巻している西洋の音楽、所謂クラシックであるが、その発展にはキリスト教とは切り離せないものがある。

キリスト教とのロシアの関わりは西の各国と比べて遅くあった。

スラブ人達が暮らしていた古代のロシア、つまりこの頃のキエフ・ルーシ(9世紀後半~1240)にギリシャ正教が入ってきたのが10世紀といわれる。


しかし、正教の伝道師は、10世紀以前から黒海沿岸の植民地に赴き、ドニェプルに沿って宣教を行い、喜んでバーニャに入ったらしい。

(банька сибирская лучше всехは名曲だと思う。https://www.youtube.com/watch?v=z_BKfRWQDio)

スラブに文字を持ち込んだキリルとメトディウスの兄弟も宣教師だった。

図1、"Saints Cyril and Methodius holding the Cyrillic alphabet," a mural by Bulgarian iconographer Z. Zograf, 1848, Troyan Monastery


そして、10世紀も終わる頃に国教がキリスト教となる。

過ぎし歳月の物語によれば、988年にヴラジーミル大公がクリミア半島にあったギリシャの植民地ケルソネスにて洗礼を受け、続いてキエフの人々も洗礼を受けたと言われる。(一次資料未確認、抑、写本のみ現存)


図2、ドニェープル流域


そしてやっと、大々的に正教会の聖歌(ビザンツ聖歌)が輸入される様になった。

ビザンツ聖歌の大雑把な特徴はモノポリー(単声)且つ無伴奏である。

ここからの大きな流れを書くと、それらが次第にスラブ化していき、ポーランドやウクライナの民謡が混ざり、イタリア音楽混ざり、ドイツ音楽が混ざる。


1.スラブ化(古代)

ビザンツ聖歌のルーシでの発展第一弾はズナメニィ("Знаменное пение")である。これはルーシ版ネウマ譜であり、ズナメニィは記号という意味から来ている。記譜法としては、歌詞の上にкрюки(鉤)などと呼ばれる記号で旋律を表す。尚絶対的な音高が示されるのは16世紀の終わりのことである。これは18世紀まで発展した。

なんと日本語のWikiがあるではないか、まじか~

参考音源https://www.youtube.com/watch?v=AbvkZnjJFzc

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%83%8B%E8%81%96%E6%AD%8C

また、ズナメニィと並行して作られた記譜法にコンダカルニィなども合ったが14世紀には失われた。メリスマだったらしい。


2.ロシアの西欧化と和声(中世)

キエフ・ルーシが(ウクライナが)タタールにぼこぼこにされている間にロシアの中心とキエフ府主教はモスクワへと移った。(かなり色々有った)


16世紀のロシアの聖歌はまだビザンツ聖歌的な単声のものであった。それが徐々に多声的なものとなり、五線譜が導入されるのが17世紀である。

また、16世紀のロシア正教では複数の聖歌を同時に歌って短縮するなんていう事も行われていたらしい。

また、ズナメニィを改良することも行われており、当時の有名な音楽家のФёдор Крестьянин(1530s-1607)は古典的なズナメニィを拡大し、民謡をベースに大きな音程を使ったりした。

参考音源https://www.youtube.com/watch?v=v6jrAEGv5A4

ピョートル大帝(一世)の父のアレクセイ帝(1629-1676)の時代にはアレクサンドル・メゼネッツによって、ズナメニィに朱色の記号を加え絶対音高を示すことが行われた。

白川


つづくかも


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